ども、クマ船頭です!
今日は、かつて太平洋を約3か月間にわたって漂流しながらも生還した、諸井清二(もろい きよじ)さんにスポットを当てます。
通称”漂流おじさん”と呼ばれ一躍時の人となった諸井清二さんですが、簡単に言葉には表せない、壮絶なエピソードの数々が!
「衝撃のアノ人に会ってみた!」に諸井清二さん本人が登場します!
現在は何故かコーヒー農園を経営しているとか!?場所はどこ?
諸井清二さんの今現在や漂流の原因、様子についても解説します!
諸井清二(漂流おじさん)とは
諸井清二(もろい きよじ)さんは大阪府茨木市にかつて住み、現在79歳です。
21歳で関西汽船(現在は商船三井に併合)に就職し、船員として外国航路にも乗船経験を重ねました。
また海技大学校に通って一等航海士の資格も取得し、ジャンボフェリーの船長にまでなっています。
趣味でも海から離れることは出来ず、ヨットを趣味としており、なんと23歳から遭難当時の56歳になっても続けていたのでした。
いつか自分のヨットで世界一周することを夢見ながら、家族のために諸井さんは一生懸命働きました。
そして気が付けば、もうすぐ定年という頃まで年を重ねていたのです。
運命を変えたヨットレースとは?
ある時諸井清二さんは、関西国際空港が開港した記念の「環太平洋ヨットレース」が開かれることを知り、大きく心を揺さぶられます。
ロサンゼルスなど世界5つの都市から大阪に向けてヨットで太平洋を横断するというもので、全部で130艇ほどが参加予定でした。
ルールは2人乗り以上で航行することで、パートナーには奥さんの千恵子さんを選び、退職金の一部をはたいてヨットを購入したのでした。
愛船の名は「酒呑童子号」(しゅてんどうじごう)といい、キャビン(船室)も備え長期航行にも耐えうる帆船でした。
諸井清二さんが一人でヨットで関西からロサンゼルスへ向かい、先に飛行機で向かった千恵子さんとロサンゼルスで落ち合って、2人でヨットレースに参加しながら関西へ戻る計画でした。
諸井さん夫婦は新婚旅行をしていません。
この夫婦でのヨットレース参加こそが、諸井清二さんから奥さんである千恵子さんへの新婚旅行のプレゼントと考えたのかもしれません。
諸井清二さんは、会社の慰留を振り切って、けじめとして関西汽船を退職したうえで、1994年2月11日に環太平洋ヨットレースのスタート地点であるロサンゼルスに向かうため、兵庫県西宮市の西宮港を出港しました。
ヨットが時化(しけ)で転覆!恐怖の体験
しかし、出港して1か月ほど経った3月8日、海は大しけに見舞われ、ヨットの外は一面真っ白に(しけで海水が泡立っている)。
ものすごい強風の嵐の中、諸井清二さんは転落防止用のハーネスベルトを身に着け、船外に出てヨットの安定を保つ作業をしていました。
しかし大きな衝撃と共に、諸井さんの身体が海に投げ出されてしまいます。
大きな波に持ち上げられたヨットが、まっさかさまに落ちていったのです。
しかも、諸井さんの身体とヨットを繋ぐハーネスベルトが、なんと外れてしまったのです。
ヨットと離れ、海に投げ出された諸井さん。
大荒れのしけの海に放り出されたら、船にはまず戻れません。
頭には自分が死ぬこと、家族のこと、様々な思いが去来していました…。
しかし!このとき奇跡が起きました。
諸井さんの目の前にはヨットの船尾があったのです。
あわててヨットにしがみついて這い上がり、キャビン(船室)にあわてて戻りました。
この時、諸井さんは本当に神の存在を信じたそうです。
大しけに遭遇しヨットは転覆してしまいます。
ちなみにヨットはひっくり返っても、そう簡単には沈みません。
今回の件でもヨットは浮力を完全には失っていないと思われます。
しかしこの時、帆を張るマストが折れ、操舵不能となっていました。
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92日間太平洋で漂流遭難!
ここでは、遭難直後から諸井清二さんが残した日誌を紹介します。
日々の経過や諸井さんの心情が、少ない文字数ながらも生々しく読み取れます。
3月8日 航行不能となる。
3月13日 東から西へ船が一隻。煙突が黄色い貨物船。
合図をしたが反応なし。4月27日「何もかも残り少なく不安かな」
「助けてと合図をすれどノーアンサー」4月30日「助け船まだ来ぬ先から乗る準備」
「いま天気どこまで続くわが命」5月2日 雨。「叫べどもこたえてくれないアホウドリ」
貨物船、また行ってしまった。10隻目。5月3日 霧。食料は6月中は何とかなりそう。
霧晴れるが、曇り空。
「漂流も2ヵ月たつと歌も出ず」5月15日 69日目。晴れ。どこまでも希望を捨てずに。
最後にチャンスが来るかもしれない。6月2日 87日目。雨。八方ふさがり。どうすればよいか
分からない。もうこれ以上進めない。
人間は過去を振り返ることはできても、過去に戻ることはできない。
さすがに20日間、一隻の船もいないと、あせりが出てくる。
天候もいっこうに回復しそうにないし。このまま助からないように思えてくる。
6月4日 行方不明のまま、帰れないかもしれないと
思いだした。頑張れ清二。6月7日 92日目。晴れ。
青い空。白い雲。光り輝く水平線の中から、
一隻の船が。
迷い子になったわが子を見つけた母親の
ように汽笛を鳴らしながら、
一直線にこちらへやってきた。
そして、静かに私の横に止まった。出典:九十二日目の天国
私だったら、あまりの境遇に頭がおかしくなってしまうと思います。
遭難92日目にしてついに、伊豆諸島八丈島沖において、ジャマイカ船籍の貨物船、ヴィエンナ・ウッド号によって救助された諸井清二さんは、10日後の6月17日に韓国・釜山(プサン)に到着します。
ようやく諸井さんは、長い長い海での日々に終止符を打つことが出来たのでした。
ちなみに遭難中は、幸運にも食料は手元に残っていて、その一つが「カロリーメイト」でした。
包装のビニールも破れておらず、海水に浸かっていても全く問題なかったそうです。
このことを諸井清二さんは大絶賛しており、最大限の賛辞を送っていました。
実は諸井清二さんの奥さん・諸井千恵子さんが、船室のあらゆる場所に食料を入れておいてくれたおかげでした。
流された食料も多かったですが、それでも残った食料をかき集めれば、それなりの量になったようです。
しかし飲料水はどうしても消費量が多く、ペットボトルを逆さにして夜露を集めて飲んだそうで、水の確保には苦労したようです。
しかしこんな水の集め方、よく知っていたなと思います。
諸井さんは戦時中を生きた方ですから、サバイバル的な知識も多少あったのかもしれません。
家族(嫁(妻)、子供)の様子は?驚きの漂流遭難の原因!次ページで!
家族(嫁(妻)、子供)の様子は?
諸井清二さんには、船員として家を長く空ける間に家を守っていた妻の諸井千恵子さんはがいます。
また子供はなんと5人もいて、諸井清二さんが遭難した時は皆で帰還を祈っていたそうです。
諸井清二さんは遭難中、千恵子さんと5人の子供たち、家族のことを思っていました。
そして「なんとか生きて帰ってやるぞ」という気持ちが湧いたといいます。
ここで不思議なことがありました。
妻の千恵子さんがある日夢を見て、夢の中では夫の清二さんがダイニングテーブルに座っていました。
そして清二さんは「6月7日に帰るぞ」と言ったそうです。
信じられないことに、諸井清二さんが貨物船に発見され救助されたのも6月7日。
極限状態の中で漂流遭難していた諸井さんには、神もテレパシーももはや信じない理由はありません。
家族を強く思う気持ちが、海を越えて千恵子さんの元まで届き、貨物船まで引き寄せたのかもしれません。
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漂流の原因は?なんと〇〇が壊れたせい!?
これだけの大惨事を引き起こしてしまった遭難事故ですが、直接的な遭難の原因は、船に備えられていた気象ファックスが故障していたことです。
西宮港を出港して間もなくに壊れ、天気図が受信できなくなったのです。
遭難の前日、諸井さんは北太平洋の真ん中あたりを航行していました。
気圧は1,016ヘクトパスカルを指し、風は逆方向に変わり、弱まりました。
このことから、出港前から懸念していた低気圧を抜けたと勘違いしてしまったのです。
しかし実際には、諸井さんは台風並みの超大型低気圧に突っ込んでいったのでした…!
そして遭遇した大しけで転覆し、帆をかけるマストが折れ、また舵もきかなくなってしまいました。
浮いているのが不思議なくらい船体は傷みきっていました。
そして全ての無線機、GPS、ラジオ、補助エンジンといった機器類も全滅。
自分が今現在どこにいるのかもわからない状況なのでした。
私は趣味で登山をしていますが、かつては山中でラジオを聴いて天気図を作成するのが日課でした。
「気象通報」といって、NHKラジオで1日に3,4回放送があり、日本、ロシア、中国、フィリピンといった周辺の気圧や天気、風速、気圧配置などを淡々と読み上げてくれます。
そこから手書きで天気図を作成して翌日の天気を予想し、翌日の行動を決めるのです。
山でも海でも、気象は非常に大事な要素です。
諸井さんも、気象ファックスが壊れた時点で、ラジオから天気図を手作りしていれば、大型低気圧の存在を事前に知ることが出来たと思います。
ここが運命の分かれ道だったのでは、と私は思います…。
諸井清二さん、船会社を訴える!
諸井清二さんは帰国から3年後の1997年、「命綱のハーネス(ベルト)が欠陥」として、船の製造会社と販売会社を相手に訴訟を起こしました。
嵐にもまれていた最中、諸井さんと船を結ぶ命綱とも言えるハーネスベルトが外れ、海に投げ出されたことは、普通の状況なら死んでいたシーンです。
海に投げ出された諸井さんの目の前に、たまたま船尾があったから助かりましたが…。
裁判の訴訟額は1,860万円という額でしたが、結局途中で和解が成立し、800万円で和解しています。
正直船の製造会社に直接的な非はないように私は思うのですが、諸井さんはやりきれない気持ちだったのでしょうか。
諸井清二さんの今現在は?〇〇の場所はどこ?次ページで詳しく!
諸井清二(漂流おじさん)の今現在は
諸井清二さんは、なんとその後沖縄でコーヒー農家になっています。
恐らく裁判で和解し和解金を得たことと、心機一転やり直したいという気持ちがあったのではないでしょうか。
そして沖縄は、奥さんの千恵子さんの故郷でもあるのです。
沖縄に土地を購入し、当初は大阪と沖縄を往復しながら、コーヒー農家として一歩を踏み出しました。
当初はなんと独学でコーヒーの木の栽培をやられていたそうです。
初めの数年は台風など自然災害に悩まされ、思うように木が育たなかったとか。
ですが2005~2006年あたりから少量ながらもコーヒー豆が収穫できるようになり、出荷できるようになったようです。
この豆は当時、ホテル「ザ・ブセナテラス」のコーヒーとして出荷されていました。
有名なリゾートホテルで、美しい名護湾のビーチに面しています。
本当にきれい…。
諸井清二のコーヒー農園の場所は?
沖縄県名護市の隣、東村(沖縄県国頭郡東村)というところに、広大な土地のコーヒー農園があります。
はじめは1,200坪ほどでしたが、今では4,000坪にまで増えています。
今では沖縄に暮らし、完全にコーヒー農家になっていました。
生産量は多くないようで、個人への販売などはしていないようですが、近隣には他にもコーヒーを栽培している農家があります。
沖縄はコーヒー栽培の北限らしいので、珍しいコーヒーに間違いないでしょう!
農場内にカフェを併設し、その場で入りたてのコーヒーが飲めるところもあるようなので、
コーヒーを飲むために沖縄へ旅行、というのもステキではないでしょうか!?
自分からアブないところへ出かけまくる人もいますけどね!
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まとめ
- 諸井清二(もろい せいじ)さんは大阪府茨木市に住み現在78歳
- 21歳で関西汽船に就職し、航海士としてキャリアを積む
- 関西国際空港開港記念の「環太平洋ヨットレース」を知り参加を決意。ヨット・酒呑童子号を購入する
- 1994年2月11日、レースのスタート地点・ロサンゼルスに向けて兵庫・西宮港を出港
- 3月8日、大型低気圧による大しけに巻き込まれヨットが破損、操舵不能で漂流状態に
- 遭難92日目の6月7日、伊豆諸島八丈島沖において、ジャマイカ船籍の貨物船、ヴィエンナ・ウッド号によって救助される
- 1997年、船の製造会社と販売会社を相手に1,860万円で訴訟を起こし、後に800万円で和解する
- その後、千恵子さんの故郷でもある沖縄でコーヒー農家として歩み始める
- 沖縄県国頭郡東村に1,200坪もの農地を購入し、コーヒー栽培をする
すごい経験だと思いますが、経験したいとは思いませんね…。
いや、誰もこんな辛いことを乗り越えたい!という人はいないでしょう…。
家族の大切さや絆を思い知らされる出来事でした。
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